京都の生活 第154回 長寿 (2013.9.27)

筆者の所属している漢詩の会で「長寿」という出題がなされたので作ってみた。

余興に自画像も描いてみたのでこのページでも見ていただくことにした。絵の方は、家内にいわせれば、「もっとボケた感じに描かないと本物らしさが出てこない」との評ではあるが、詩だけでは面白みがないので掲げておくことにする。


それにしても、長寿、長寿と喜んでばかりはいられない。昔は仕事を引退したら10年くらいでお迎えがきたからそれほど苦労せずに死んでいったが、今は延々20年、30年生きなければならない。とりわけ男にとっては大変な時代になったものである。

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たとえお金に余裕があるにしても、遊んでばかりではすぐに飽きがくる。よほど真剣勝負ができるような遊びでないと空しさを覚えるばかりである。経営者に地位にしがみつく人が多いのを目にするが、それも分からないわけではないと最近思えるようになった。

それに反して、芸術家は年齢を重ねるにつれて優れた作品を作り出せる人が多い。このページの152回で紹介した同級生の版画家もますます活躍の場を広げていて、引退した同級生の元大学教授たちを羨ましがらせている。

元気で自分のことは自分でできるうちはよいが、それもままならない場面がやってくる可能性もある。筆者の場合は、祖父母、両親、兄弟みな周りの身内に、ほどよい程度に世話になって亡くなっていったが、われわれ夫婦の場合はどうなることやら。

そんな複雑な気持ちをやや自嘲気味に詩にしてみた。
「殘灰」は燃え尽きた灰。多くの友人たちは若いころに志半ばで死んでいったのに、この私は燃え尽きてしまっているのに何時まで生きるのであろうかと結んでいる。